現代に生きている人間は、ちゃんと勉強した人でもしなかった人でも、太陽という大きな恒星があって、
じぶんは地球という惑星に生きているくらいのことは、なにかものを考えるときの前提のように知っている。
そして、そういうことを知らなかったとしたら、と、想像するだけでも困難になっている。空を見上げたら浮かんでいるあのまぶしいものを、
なんだと思えばいいんだ。
そして、夜になると見える薄明るいあれを、どういうものだと思えばいいのか、わからない。夜空に小さく空いた光る穴は、いったいなんなのか。日だ、月だ、星だと名付けられてはいるけれど、
「なに、これ?」と思っていたにちがいないのだ。
いまの人たちが知っている動物の内臓についてだって、知っていることは知っているのだろうけれど、なんでまた、こんなんなっちゃっているのか?昔の人がすっと理解していたとは思えない。
前に、太古の恐竜の化石を見つけてしまった人間が、どういうことを想像したのかについて書いた。それとは別に、例えば日本列島に住んでいた昔の人は、遠く離れた土地に棲んでいた象やら獅子やらが、ほんとうに存在すると信じられたのだろうか。
いまの時代に、知識として教えられたことは、人類が、長い歴史のなかで少しずつ知っていったことだ。その長い少しずつの時間を、あっというまに知って、そんなの当たり前でしょ、みたいな気分でいるのは、なんだかとても、その、動物として生意気な気がする。いまに生きる人間でも、生まれたての赤ん坊は、太陽や月や星が、天体であることを知らないし、じぶんが地球に暮らしていることも知らない。ぼくは、幼いときに星を見て「なんなんだ、これは」と、妙な気持ちを味わっていたことを、少し憶えている。あの、ややなつかしい「知らない感」というのは、知っていること以上に、大事なもののような気がする。